神武天皇と卑弥呼の前後関係
古代日本の年代復元は非常に重要で興味深い問題であり、初期の天皇の在位した年代についてはさまざまな方が試みられています。
その中で日本書紀に書かれた年代をベースにあれこれ論じているものがありますが、第20代安康天皇以前は暦による記録がもともと無かったと思われ、ほとんど当てにならないと考えざるを得ません。日本書紀の年代は実は年代をごまかしており、実はこうだといった類の推論を良く見かけますが、そのような推論は、
・日本書紀の編集者は大和朝廷の初期について、正確な年代情報を把握していた。
・日本書紀に正確な年代を記すと不都合があるため、干支の60年単位でさかのぼるなどの造作を行った。
という2つの仮説を前提としています。しかし、両者とも確かな根拠はなく、特に前者については前述の暦の問題からしてもきわめて考えにくいものです。したがってこのような推論が正しいという可能性は皆無です。
安本美典氏は日本書紀の年代は当てにならないものとし、天皇の平均在位年数が時代が古くなるほど短くなること着目し、在位年数が確かな時代からの外挿により、初期の天皇の時代を推測しています。それによれば、初期の天皇の平均在位年数は約10年と推定され、神武天皇は3世紀末、それより5代前の天照大神は3世紀前半の人物である卑弥呼の時代に一致するとしています。
この推定は自身の著書でかなり強調しています。たしかに日本書紀の年代をあれこれ弄るよりは客観性があり、確からしいものではありますが、相当に誤差が大きいものであって10年単位で年代が求められるようなものではなく、おおよその目安でしかありえません。
初期の天皇について年代の精度を上げていくにはされに別の観点から基準となりうるものを探していくことが有効でしょう。
安本氏が「平均在位年数」以外に時代を推測する手がかりとして挙げているのが、「刺青」です。
・魏志倭人伝では、倭人は身分にかかわらずみな刺青をしていた。
・神武天皇が大和に入ってから后を探す場面で、オオクメが目じりに刺青を入れていたところをイスケヨリヒメにあやしがられた。そのため、このころは刺青がやや珍しくなっていたと思われる。
・「古事記」安康天皇段で、オケ・ヲケ兄弟(仁賢・顕宗両天皇)が山代の苅羽井で御糧を食するときに、山代の猪甘と名乗る「面黥ける老人」がその糧を奪ったとあることから、このころは刺青を一部の卑しい身分のもののみに見られる風習になったと思われる。
という例を挙げ、神武天皇の時代は卑弥呼の邪馬台国の時代よりも後であるとしています。もちろん、地域差等の要素があるので絶対とはいえませんが。
ほかに、古代日本の年代を推定する方法として、古墳の時代から考える方法というのは誰でも思いつくところだと思います。ただし、古墳の年代を正確に決定することは容易ではなく、また、被葬者の特定もはっきりしないものが多くあることからすると、個々の古墳年代から、初期の天皇の年代を明らかにしていくことは現状では難しいといえるでしょう。しかし、古墳タイプの全体的な変遷に着目するならば、前方後円墳が第7代孝霊天皇以降ということから考えると、円墳であったと見られる卑弥呼の墓は、孝霊天皇よりは以前のものなのだろうと思えます。
全体としてみれば神武天皇は、248年頃に死亡した卑弥呼と同時代か数十年後の人物と考えて、大きく違っていないのではないかと思われます。
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